3人の武将の年表

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康 ― 戦国から江戸へ
およそ100年つづいた戦国の世を終わらせ、天下統一へとつないだ3人の武将。 生まれた年は少しずつちがいますが、おたがいに 力を合わせたり戦ったり しながら歴史を動かしました。 左の 西暦 をもとに、3人がいつ・どんなことをしたのかをくらべてみましょう。 ★印 は、教科書にもよく出てくる大切なできごとです。
織田信長(おだ のぶなが) 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし) 徳川家康(とくがわ いえやす) ★ 3人にかかわる大きな事件
西暦
織田信長1534 - 1582
豊臣秀吉1537 - 1598
徳川家康1543 - 1616
1534
尾張(愛知県)に生まれる0歳
1537
尾張の農民の家に生まれる0歳
1543
三河(愛知県)に生まれる0歳
1549
人質として今川氏のもとへ送られる6歳
1551
父の死後、織田家のあとつぎとなる17歳
1554
この頃、信長の家来となる
1560
桶狭間(おけはざま)の戦い
今川義元を破る26歳
桶狭間の戦いのあと今川氏から独立17歳
1562
清洲(きよす)同盟
家康と手を結ぶ
清洲同盟
信長と手を結ぶ
1567
美濃を平定し岐阜城へ
「天下布武」をかかげる
1568
足利義昭を立てて京都へ入る
1573
室町幕府をほろぼす
長浜城の城主となる
1575
長篠(ながしの)の戦い
鉄砲を活用し武田軍を破る
信長の家来として
長篠の戦いに参戦
長篠の戦いに信長と参戦
1576
安土城を築きはじめる
1577
安土城下で楽市・楽座を行う
1582
本能寺の変
明智光秀におそわれて自害49歳
山崎の戦い
主君のかたきとして光秀を討つ
本能寺の変のとき堺にいたが
「伊賀越え」で三河へ帰る
1583
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を破る
大坂城を築きはじめる
1584
小牧・長久手の戦い
家康と戦う(決着つかず和睦)
小牧・長久手の戦い
秀吉と戦う
1585
関白に任じられる
1586
「豊臣」の姓をたまわる
太政大臣となる
秀吉に従う家来となる
1588
刀狩(かたなが)り令を出す
1590
小田原の北条氏をほろぼす
全国を統一する53歳
関東(江戸)へ国替え
1591
太閤検地をすすめる
1592
朝鮮へ兵を送る(文禄の役)
1597
ふたたび朝鮮へ兵を送る(慶長の役)
1598
病で死去61歳
1600
関ヶ原の戦いで石田三成らを破る57歳
1603
征夷大将軍となる
江戸幕府をひらく
1605
将軍の位を子の秀忠にゆずる
1614
〜15
大坂の陣で豊臣氏をほろぼす
1616
病で死去73歳

3人のつながりを見てみよう

① 信長と家康 ― 力を合わせた仲間

1562年の 清洲同盟 から、1582年の本能寺の変まで、約20年間にわたって2人は手を結びつづけました。 1575年の 長篠の戦い では、信長と家康の連合軍に、信長の家来であった秀吉も加わり、 のちの天下人3人がそろって武田軍と戦った めずらしい戦いでした。

② 信長と秀吉 ― 主君と家来

農民の出身だった秀吉は、信長の家来として活やくし、城主にまで取り立てられます。 1582年に信長が本能寺の変で命を落とすと、秀吉はすぐに京都へかけもどり、主君のかたきとして明智光秀をうちました。

③ 秀吉と家康 ― ライバルから家来へ、そして…

1584年の 小牧・長久手の戦い では、秀吉と家康は戦って決着がつきませんでした。 その後、家康は秀吉に従い、関東(江戸)へうつります。 秀吉が死んだあと、1600年の 関ヶ原の戦い で勝ち、1615年には大坂の陣で豊臣氏をほろぼし、徳川の世が長くつづくことになりました。

織田信長

1534 - 1582 / 49歳

古いしくみをこわした人。 鉄砲を上手に使い、楽市・楽座で商売を自由にし、寺社の力をおさえました。 天下統一の一歩手前で、家来の明智光秀に討たれました。

豊臣秀吉

1537 - 1598 / 61歳

天下を統一した人。 農民から関白までのぼりつめ、検地と刀狩で世の中のしくみを整えました。 晩年は朝鮮への出兵を行い、人々を苦しめたとも言われます。

徳川家康

1543 - 1616 / 73歳

江戸幕府を開いた人。 長く我慢して機会を待ち、関ヶ原の戦いで勝利。 その後 約260年つづく江戸時代 の土台を作りました。